混相流でなくいわゆるケミストリー的な科学反応が望ましいが。

「教育とは混相流である」とは誰が言ったか、言わないかわかりませんが、
教える側の意見だけではいけないし、かといって教わる側の意見だけでも教育にならず、
でエゴとの境界線の駆け引きが自分の中で繰り広げられます。
本来なら、混相流でなくいわゆるケミストリー的な科学反応で、
さらなる相乗効果が期待できればいいのですが、
それには教育者・生徒、両方の姿勢が求められるので、なかなか難しいことでしょう。
とはいえ、教育の内容以前に、教育者の人間性がもっとも重要だという声も聞こえるので、
耳が痛いですよね。

ハワイアン雑貨に囲まれたアロハな家庭でも。

よく強いるのは良くないと聞きますが、だからといって放任も当然良くありません。
「我が家の子育て」など雑誌でありますが、
結局とくに方針はなく、後付け的な理由を述べている家庭はよくありますね。
男性は論理的、女性は感性的と言われますが、
個人的には、強いるや放任以前に、この相入れづらい二つを
夫婦でうまく融合できた家庭が良いのだと思います。
ハワイアン雑貨に囲まれたアロハな家庭でも、本ばかりに囲まれた家庭でも、
いわゆる愛情というものがしっかり伝わる環境が将来どういう風になるかわかりませんが、
子供にとって最良な教育なはず。

食品だけではなく化粧品輸入代行や、その他輸入物を見ても。

今と過去の教育を比べると当然違いが大きくあります。
質が〜という話ではなく、内容の話です。
小学校から英語が必修化になったり、道徳教科化などなど、
時代を反映している感じではありますが、私には何が必要か正直迷っている気もします。
私が思うに当然英語は必要だと思いますが、
それ以上に農業のような授業がもっと必要だと思うのです。
先進国は、常に発展途上国から食品を多く輸入する傾向にあって、
食品だけではなく化粧品輸入代行や、その他輸入物を見ても自国で作らず、
システムだけ国で作ってモノは他国で、といったことが常習化しています。
今はいいでしょうが、そんなことがいつまで続くのか?
今から国の制作力を上げるべきだと思うのですけど、
一度楽を知ると人も国も戻れないのが常なんでしょうか。

ウユニ塩湖のような美しい心をもった情操教育を目的に

ゆとり教育というものがかつてありました。
詰め込み教育の反省を踏まえ、その名の通り、ゆとりをもった教育を推進したわけですが、
どうにもゆとり過ぎたのか、貝原益軒が言った子供には厳しい教育も必要だ
ということを証明した結果となりました。
当然、所謂ゆとり世代を十把一絡げにしてはいけませんが、
大きな単位を語るときは仕方がないとご容赦いただきたい。
本来ゆとり教育は、ゆとりを作ったぶん、
ウユニ塩湖のような美しい心をもった情操教育を目的にしたと思われるのですが、
頭が固い団塊世代の考え通りにはいかなかったようです。
でも、ゆとり教育は、団塊世代のそうあってほしい教育だったのでは?とも思います。
そうなると、ゆとり世代が作る教育は詰め込みに?

脳をパーテーションレンタルか何かして

文系だとか理系だとか、海外ではあまり分けないと聞いたことがあります。
さらにいうと、いちいち区切っていたら思考を狭めてしまうではないか、
とも聞いたことがあります。
まさに私もそう思います。
得意分野を持つことはどのような分野でも必要なことですが、
それしかしないと言うのは、得意なものを壊しかねない窮屈な思想だと思うのです。
言ってみれば、脳をパーテーションレンタルか何かして借り物の区別をしている状況で、
無意識的に別の分野への思考を寸断しているのです。
サヴァン症で風景が数字に見えるという例がありましたが、
そういう情緒的な理系も当然あっていいし、
超論理的な文法を用いた文学だっていいと思うのです。

もっといえば豊胸しているバイセクシャルのかたなどにも話を聞いて見る。

倫理観の教育ほど難しいものはないと個人的に思っています。
多くの塾に通わせて、英才教育を施した子が親を殺してしまったとか、
警察官の息子が犯罪常習者にとか、親がしっかりしていると思われていても、
コピーのように子供が同じにはならないのです。
むしろしっかりしている分、気づかず子供を抑圧させているということが多くあるようです。
勉強も大事ですが、人との関わりをもっと学ぶ必要があります。
たとえば、家族以外のおじいさん、おばあさんや、赤ちゃんや子供、
もっといえば豊胸しているバイセクシャルのかたなど、人には色々いて、
それぞれ関わって生きているということを知る必要があります。
もしかしたら、教育という区切られたカテゴリーがそもそもの問題なのかも。